これまでの僕は、「考える」ことが苦手だった。
考えるという言葉にも、「思考」「思索」「考慮」「検討」などより解像度高く示した言葉がある。これまでの僕は点としての「思考」はできていたけど、線や面としての「思索」が苦手であることに気が付いた。
トレーニングメニューを組んだり、プランを考えたり、クライアントの真のニーズを汲み取ったりこれまでの経験もあると思うけど少しの問いですぐに答えを導けるようなことなら「思考」することはできていた。これまでの人生の延長線上で、一コマだけ脱線したポイントを紡ぐ程度の思考はできていた。
今は一人の時間が以前よりも相当多く、単発的に「思考」するよりも人生100年時代における長期プランとして自己実現欲求を満たすための「思索(秩序立てて考えを進めること。物の道理をたどって考えていくこと。)」することが必要だったが、最近になってようやく「思索」する方法をつかめそうな気がしている。
これまでは周りに人がいることによるプレッシャーによって、例えば人と対面して話す状況によって強制的に考えを深めることができていた。
そもそも「考える」って難しくないですか?
机の上で腕を組んでいたり、紙にペンを走らせるうちに考えることはできても飽きたり疲れてしまってすぐに思考停止に陥ってしまっていた。
で最近気が付いたこと。
散歩が思索を深めるということ。
散歩することが脳にもいいことは知られていて、読書の合間や何か物事を考えることに疲れたら散歩をしていた。幸いにも閑静な住宅地に住んでいるおかげで、のんびりとゆったりした感情で散歩することができて、気が付いたら自分自身と身振り手振りしながら対話するようにどんどん考えが前に進んで、昨晩なんて多く活動し1万歩以上歩いて体は疲労しているんだが思索がどんどん進んで寝付けなかった。「早朝に散歩したらもっと気持ちよくてもっと考えが深まるのではないか」と考えが進んだ結果今朝5時起きにセットしたが、睡眠時間が足りない不合理性が高まるという言い訳で早起きできなかった。
考えが浅いことは育った家庭環境も影響していると思う。僕の育ってきた家庭では物事の本質的な話はほとんどしなかったしなぜか疎ましがられる風潮があった。一方成人を過ぎた息子を持つ友人とは対話しながら考えを深めその友人は息子とも同じように話し問いを与え相手に深く考えるきっかけを与えてくれる。
僕自身ビジネス書が好きな理由もそれだと思った。マンガや小説は読まないけどビジネス書は自分が向き合うべきことに対して考えるきっかけを与えてくれるから。ちなみに寝る前は伊坂幸太郎の小説を読むのは、飽きやすい僕でも「次のシーンではどうなるんだ?!」と離さないから。
知的好奇心が旺盛で、深く考え追求することが楽しくてしょうがなくなっていったら、その人は勝ち組だと思う。さんまさんがいう「生きてるだけで丸儲け」。
そして実際深く思索にふけることが出来た時ほど、仕事なんて一切していなくても充実感が高い。そしてそれはいずれ後で返ってくる(はず)。だからそういう時間を持つことは大事だと思う。
そんなわけで、さきほど「考具」という好きな作家も紹介していた本をポチった。
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